〔IV〕整備拡張の頃  
 

【運動場の拡張】

 
 
 昭和29年4月、全国的な町村合併の気運に乗って、良元村は隣接する宝塚町(元小浜村昭和21年町制施行)と合併、宝塚市となった。
 20年代に早くも戦前水準を回復した日本経済は、30年代にはいるとめざましい高度成長を遂げはじめた。これにともない国民生活一般もようやく戦後の混乱を脱して、人々は余裕をとりもどした。
 こうした変化は教育界にも顕著に現われ、新学制が定着するとともに、今度は教育施設の整備拡充に力が向けられることとなった。
 小林聖心女子学院においては、それは、まず運動場の拡張というかたちで現われ
昭和32年5月、9.917㎡の運動場とバレー、バスケット、テニスなどの各コートが新設された。
 これにより校地は著しく拡大したが、生徒たちは膝下10センチもあるキュロットスカートでなよなよと内股に走るばかりで、せっかくの運動場もだだっ広く寒々しくさえ感じられるほどであった。
 いまでは信じ難いことだが、当時の当校の体育の授業といえばダンスと体操が主体で球技もコリネ(紅白に分かれての硬球を投げての陣取り)、ドッジボール、バーニングボール(羽子板のようなバットと硬球を使っての一種の野球ゲーム。”聖心野球”とも呼んでいた)程度で、たまにボールを蹴ったり鉄棒で逆上がりなどしようものなら、”聖心のお嬢さんらしくもない、はしたないこと”として注意されるような
状態であった。
 とはいえ、元気ざかりの生徒たちにとっては,身体を動かすことは本質的に楽しいことである。このころから生徒たちは。球技にいっそう活発に親しむようになった。
   4代院長
マザー・フィッツジェラルド
(1953.1-1959.9在任

 校長 マザー・福川
(昭和10.4-40.3在任)

 
 



   拡張された運動場

バレーボール

       体育祭

 
 
【新館2棟と聖堂本館の落成】

 これより先昭和30年に、戦後学院の復興に努めたシスター伊藤が副院長に就任し、代わって主事となったシスター福川が翌31年8月より校長となった。
 また34年10月には,4代院長マザー・フィッツジェラルドの退任にともない、マザー・シッケルが後任となったが任期は短く、37年には院長としてマザー青木を迎えた。
 この間も、教育設備・施設の充実は父兄会の応援を得て着々と進み、36年3月には、高校および大学分校の校舎(現在の中学および高校校舎)新館2棟が完成した。
 さらに40年2月、従来講堂のあった場所に聖堂本館が竣工。現在、小林の丘の上、緑の木立ごしに三角の塔がそびえている建物がそれである。

   「樹々の間をぬって坂を登ると、そこに塔がある・・・。
    塔はいと高きところ、天をのぞむ心・・・」
       (中・高校文集「塔樹」創刊号に寄せた                             現校長シスター竹井の巻頭言より)

 この塔にちなみ41年の5月より町名は小林字ハゼリから塔の町と改められた。
 なお、旧聖堂は40年10月、講堂に改築された。
5代院長 マザー・シッケル
(1959.10-1962.8在任)
 
 6代院長 マザー青木
(昭和37.8-42.3在任)
   
 
 
10代総長マザー・ド・バロン
の小林訪問(1961.5.9)
天使会 十字軍 マザー三好の文学の授業
 
教職員(昭和35.3) 献堂式 田口司教司式  
 
 

【大学分校の東京移転】

 当学院創立の最初の―粒の麦ともいえる専修科は、昭和25年以来、東京の聖心女子大学の分校となっていたが、41年、本校に吸収合併のため廃止されることになった。
 もともとこの大学小林分校は、2年間の勉強を終えて家庭にはいる人々を対象として設立されたものであったが、年々進学希望者がふえ、最近では学生の9割までが本校の3年に編入しているのが現状であった。したがって、2年間でいちおうの課程を終了するようにカリキュラムが組まれている分校では、単位の修得が中途半端になる、しかも、終戦後のきびしい交通事情とは異なり,新幹線も開通された今日では関西から東京への進学はきわめて容易となった、などの理由で、進学希望者は最初から本校に入学する方がよい、との結論に達したのである。
 これについて、分校校舎は父兄の学院債によって建設されたものであったため、父兄の間から―時反対の動きも出たが、学校側の事情説明により了解を得て、校舎はその後高校用に使用されることとなった。

 
 

  青木院長の挨拶

父兄会代表の挨拶  
   チャリティーコンサート(昭和40.5.29.)     
 
 

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