〔III〕学制改革のもと  
 

【抑留マザーの帰校】

 昭和20年8月15日、日本の全面降伏をもって戦争は終結した。4年前の冬の日、屋上に全校生が集合させられて大東亜戦争勃発を聞いたときと同じように、敗戦は、またしても一方的に告げられたのである。非常べルによってジムネージアムに集合し、在校生と教師全員が整列して玉音放送を聞いた。放心する先生、耳を疑い、次いでワッ と泣き出す女学生、よくはわからないままおとなたちの表情から何事かを察しておびえる小学生。 ――さまざまな受け入れ方のなかで、ただ瞑目して祈るマザーやシスターの姿が印象的であった。
 川西工場および海軍製図工場では、ただちに書類焼却、工場取壊し、物品搬送に着手し、 あわただしい退去が始まった。とにかく、学院は長い戦争から解放されたのである。
 敗戦にともない、日本は連合軍総司令部(GHQ)の占領下におかれることとなり、各地に米軍が進駐してきた。
 さっそく、宝塚に来た進駐軍の軍属神父が、小林の坂道をジープで登ってきた。修道女ら念願の御ミサが始まった。兵士たちのなかの信仰あつい者たちが丘を登って御ミサにあずかりに来るようになった。そして、やがて彼らは、修院や学校での力仕事を自らかってでるようになった。
 戦時中の人手不足や学校工場で荒れはてた修院・学院には、男手を必要とする仕事が山のようにあったのである。こうして映画『野のユリ』をほうふつさせるような友情が、黒衣の修道女と荒くれ兵士たちの間に生まれ、育っていった。
 ―方、長崎に送られていたマザーやシスターの安否が8月9日の長崎原爆投下以来気づかわれていたが、幸い抑留されていた神学校が爆心地から遠く離れていたため、被害をまぬかれたとの報がはいり、小林ではひたすらその帰りを待った。
 17名のシスターが帰ってきたのは、終戦の年の秋―― 10月17日であった。米軍の軍艦で和歌山まで運ばれた後、そこからさらに軍の大型トラック2台に荷物ともども積み込まれて、なつかしい坂道を登ってきたのである。もどった者、待った者、それぞれ手をとり合って、小林の丘は再会の喜びにわきたった。

 
 
学院主事マザー伊藤
(昭和21.4-30.3在任)

3代目院長マザーマイヤー  と小林修道院(昭和23)  校門への坂道     第22回卒業生と先生  
 
 

【新学制の発足】

 GHQの占領政策の基調は、日本の非軍事化とそれを確保するための民主化であった。
 教育面においても、昭和20年「日本教育制度怩ニ対スル管理政策」を指令して、国家主義・軍国主義的思想の普及を禁止したのを手はじめに、次々と改革の歩を進めた。
 翌21年、アメリカから来日した教育使節団は、さまざまな示唆に富んだ視察報告を提出してその後の日本の教育に多大の影響を与えたが、22年3月、この勧告を大幅に取り入れた教育基本法が学校教育法とともに公布された。これより、六・三・三・四の新学制が発足し、小学校および新制中学校の9年が義務教育と定められた。
 小林聖心女子学院においても、ただちに新学制に基づ く学校組織の整備と、戦時中低下した学力の回復を目標とする授業の充実に全カが傾けられた。
 この学院復興という難事業にあたって、実務の中心となり最も積極的に活躍したのが、21年4月よりミストレス・ゼネラル(学院主事)となった前述のマザー伊藤マリ子である。22年、ふたたびマザー・シェルドンと交替で小林の院長にもどった病身のマザー・マイヤーを助け、教務担当のマザー三好(昭和48年現在・聖心女子大学学長)とともに、戦時中工場や畑として使用され、見るかげもなく荒廃した校舎内外の整備に精力的にあたった。
 そしてこのとき、校舎内部の壁という壁を明かるい色に塗りかえて、戦争の暗いイメージを一掃することにも努めた。
 新学制に基づく小学校、中学校、高等学校の発足は23年4月からであったが、これに先立ち、それぞれの教育内容の充実にも心をくだいた。
 なお、太平洋戦争突入と同時に解散を余儀なくされた専修科は、マザー岩下らの努力により戦後ただちに再編成され(20年秋)、ひきつづき22年には、3年制の高等専門学校に昇格した。次いでその後、23年に東京の専門学校が聖心女子大学となり、24年には小林がその分校とな った。
 そして26年3月、小林聖心女子学院はその組織を財団法人から学校法人にきりかえた。これまで一体となっていた修院と学院を、組織のうえで明確に区切ったのである。

 
 

校舎全景

体育館内部

食堂
 
 

【ロザリオ・ヒル】

 昭和24年、学院の正面向い側の丘陵一帯に男子校建設の計画がある、という情報が流れた。これを聞いたマイヤー院長は、学院の環境保持のためにこの土地の購入を強く希望した。そこで、岡田利兵衛先生を中心に、父兄会はあげて資金の獲得と交渉に奔走することとなった。そして24年10月、念願かなって買収にこぎつげた。
 現在(昭和48年)"ロザりオ・ヒル"と呼ばれ、果樹・疎菜園として利用されているのが、この土地である。さらに28年8月には、校門前およびガードから聖心橋までの登校路の北側の8118㎡を、同じく環境保持のため購入した。
 何かを建設するための用地としてではなく、純粋に学院の環境を守るためだけにこれだけのことがなされた。今日、小林聖心女子学院は、教育環境絶好の地として参観者の羨望のまととなっているが、その陰には、教師・ 父兄―体となってのこうした努力があったのである。
 昭和26年1月、軍払下げ鉄骨を利用した体育館(現・小学校)が落成し、従来の体育館は中・高生の食堂に改造された。また、翌27年10月には、初めての高等学校修学旅行が実施されるなど、外面的にも内面的にも学院復興は軌道にのりはじめた。

 
 

ぶどう園

昭和48年のロザリオヒル

戦後初めての修学旅行
(昭和27年10月白浜方面)
 
 

【バラ・ホームの建設】

 前にも述べたように、小林聖心女子学院は、創立当初から絶えざる慈善の活動を行なってきた。
そもそも昭和8年に大阪に愛徳童貞会のシスターを招いて「大阪聖心セツルメント」を開設、貧しい人々への救済事業の先鞭をつけたのが、小林の初代院長マザー・マイヤーであった。
以来、毎年8月に同地区の100名以上の子どもたちを学校に招待するのが恒例となっていたが、これ以外にも慈善音楽会や病院慰問などが学校の年間行事の中心に組み込まれており、 聖心の生徒たちと奉仕の精神は、もはや分かちがたく結びつけられていた。
 昭和25(1950)年、聖心会の創立150年を祝う祝典が世界中の すべての聖心で盛大に行なわれることになっていた。小林でもこの祝典に先立つ準備が諸方面より進められていたが、卒業生の組織する「みこころ会」の代表は、マザー・マイヤーに150周年の記念事業として何かをし たいが、何がいいでしょうか、と申し出をした。
院長の答えは「どうせ何かをくださるのなら"生きた"記念品が望みです。学院の近くの人たちのために役立つことをしてほしい。とりあえず役場へ行って、いま、いちばん助けてほしいことは何か聞いてきてください」と いうことであった。
 ただちに役場へ問い台わせると、蔵人および小林にひとつずつ無料診療所を設置してほしいとの希望であった。
 卒業生たちは、あまりの難題に頭を抱え込んだが、マザー・マイヤーは善と信じたことの前では、決してひるまなかった。このころマザー・マイヤーは、住吉から小林への移転に始まり 戦争中ひきつづいた過労によって健康をむしばまれ、もはや車椅子の上に不自由な体をのせたままだった。しかし、断固その実行を決意した。  かくしてマザー・マイヤーのリードに従い、診療所設置の運動がみこころ会によって進められた。
 蔵人では公会堂の一室を提供され、小林では小さな家を卒業生の負担で買いもとめ、それぞれ愛徳童負会のシスターならびに阪大医学部の先生をよんで診療所開設にこぎつげた。
 その後、蔵人の方は公営のものができたので解散したが、小林ではいっそう充実したものにするための努力が 重ねられた。やがて院長念願の本格的な診療所建設のための用地が確保されたので、竹中工務店に建設を依頼し た。その青写真が完成したとき、マザー・マイヤーは、「実は、私ども、建設のための資金はいまのところゼロなのです。支払いはお金ができるまで待っていただけないでしょうか」 と頼んだ。
 竹中工務店はマイヤー院長の人格と熱意にほだされて、この仕事の意義と公共性を認め、寄付がはいる都度の分割払いということで、快よく着工の運びとなった。
 こうして27年9月、バラ・ホームは生まれた。なお、この建設費はマザー・マイヤー帰天の2ヵ月前の30年10月に完済された。
 小林駅から歩いて、2~3分、県道沿いにある2階建の建物で、2階が事業主体となる愛徳童貞会のシスターの宿舎、1階が無料保育園兼日曜学校で、週2回の無料診療所も開設されている。
 以来今日まで、みこころ会と在校生が物心両面からの援助をつづけているが、彼女らをここまで導いてきたのが、マザー・マイヤーの深い愛と"善なるものへの勇気" であったことは論をまたない。

 
 

大阪の聖家族の
子どもたちを迎えて

保育園の子どもたち

昭和48年のバラホーム
 
 

【マザー・マイヤー帰天】

 戦後、3代院長としてふたたび小林の丘にもどったマザー・マイヤーは、その後いまや病苦のため車椅子を 必要とするようになった。
 先に述べたロザリオ・ヒルの購入、バラ・ホームの建設、そのほか数々の偉業のすべては、車椅子の上のその不自由な身体でなされたのである。

      「高きを望め。あなた方の眼は、いつも最も高きものを望んでいるように。
       あなた方の一生は、高きものへの絶えざる努力であるように。
       自分の一生で完成できない理想は、子女において、教え子において
       完成するように努力してほしい」
                             ―マザー・マイヤーのお言葉―

 失った健康のかわりに、天性の慈愛と精神力はいっそう強まり、マイヤー院長の笑顔とよくひびく明るい笑い声は、それだげで学院中の人々の励ましとなった。
 毎土曜日の職員会議には、編み物、組み紐などの手仕事を持って臨み、その手を休めることなく、生徒一人一人の生活や学習ぶりに耳を
傾け、簡にして要を得た力強い指導の言葉を授げながら、ときおり、そのおおらかな笑い声を聞かせるのであった。
 しかし、しだいに病いは進み視力も衰えたので、昭和28年、院長の職をマザー・フィッツジェラルドに譲って、重い重責からようやく解き放たれた。その後は、もっぱら幼い寄宿生の遊び相手や卒業生の相談相手となって、日々を過ごした。
 卒業生一人一人について、母親にもまさる心づかいを示し、あらゆる相談事を引き受げるのは、院長時代からひきつづいていた。かつての“聖心の子どもたち”は、長い人生の坂道で思いあぐむそのたびに、幼い日にもどって小林の坂道を駆け登っていった。そしてマザー・マイヤーの暖い、とてつもなく広い心と向かい合えば、それだげで大きな勇気が身体中にわきあがってくるのをおぼえた。
 しかし、やがてマザー・マイヤーは神のお召しによって、昭和30年12月30日、心臓衰弱のため78歳の生涯を閉 じたのである。
 「マザー・マイヤー帰天」の報は活字や電波に乗って、 たちまち全国を走った。
 3日の間、弔問客はひきもきらず、1月3日の葬儀ミサは、1,400人の会葬者を収容するため、聖堂ではなく体育館で行なわれた。
 式を司った田口大阪司教は、その追悼説教のなかで、「マザー・マイヤーは、天主様のつくられた最大傑作のひとつであった」と、讃えた。
 ――― 偉大なる慈母を失って、その冬、小林の丘の上は 喪の色に沈んだ。

 
 


    マザー・マイヤー


マザー・マイヤーの葬儀ミサ

マザー・マイヤーのお墓
 
 


【制服と学校行事】

 昭和25年の朝鮮動乱勃発は、日本経済立直りのいとぐちとなった。
 世の中が落着きをとりもどすにつれて、小林聖心女子学院にも戦前の"聖心らしさ"が回復しつつあった。
 コンクリートの教室で角火鉢1個で寒さをしのいでいたのも、マザー・マイヤーの決断でいち早く暖房が復活したし、そのおかげで、古い制服の下にモンぺを重ねてはくという、実用一点ばりの戦時スタイルからも解放さ れた。
 25年当時の制服は、小・中・高校生とも白の綿プラウスに濃紺のサージのジャンパースカート、皮のベルトに黒の長靴下、冬はこの上に濃紺のセーターを重ね、さらにブレザー風の上衣を着ける。



昭和11年頃の小学生
 
 

昭和27年頃の体操服
   夏の暑い盛りにも、ブラウスの袖は肘がかくれるほどの長さだが、それをまくりあげるなどもってのほかであった。ジャンパースカートは夏冬とも同一生地で、そのうえ膝がかくれるほどの丈だから、体操の時間など生徒たちが走ると、ぱたぱたはためいて足にまとわりついた。
小学生は、登校するとすぐにこの上に黒の繻子のエプロンを着けることになっていて、この姿は何ともかわいいものであった。
一方、先生たちはというと、マザーにならって夏でも七分袖、和服の時ははかまをはいて草履という、いとも優雅なスタイルで教壇に立つのである。
そして7月初めから9月上旬までは、マザーもまっ白なベールと僧衣に衣替え、その間、キャンパスは眩しさがいや増すのであった。
 
 
 
 このような制服や学校環境にも、聖心の特異性はおのずから現れるが、さらに公立校にはない特殊な学校行事の数々をみれば、聖心のめざす教育の一端がうかがえよう。
 まず4月、〈総長さまのお祝い日〉。ローマに在って世界中の聖心会を統括する総長を祝って、9時になるとクッキーやババロア、ゼリーなどシスター手製のお菓子とミルク入り紅茶が出る。
 次には5月25日、坂道のツツジが満開となるころ、聖心会の創立者〈聖マグダレナ・ソフィア・バラのお祝い日〉。スポーツ大会や同窓会が行われる。
 6月は〈院長様のフィースト〉。院長に祝意と感謝を表明する日である。ウィッシングのほかに、生徒全員が日ごろの勉強の成果を作品にしてこれを展示し院長に見てもらうフィースト・ワークというのがある。そのため作品ほすべて英語で書かれなげればならなかったし、ていねいに美しく整えられるようにしつけられた。

 
院長様のお祝い日
 
 

    堅信の秘蹟


御聖体行列    

聖心のお祝い日 
 
 
 

Come and See Day
 

 2学期になると、10月第2週の土曜日に行なわれる、恒例 のバザー〈Come and See Day〉のための準備で学校全体が活気にあふれる。戦後の食糧難時代のこととてお茶、砂糖、メリケン粉、小豆などを生徒たちが家庭から持ち寄って、シスターがケーキを、先生と生徒が―体となってお寿司やぜんさいをつくるのが精―杯のごちそうであった。当日、講堂で開かれる音楽会のプログラムには、ピアノ独奏などのほかに英語劇やジャパニーズ・ダンス〈日本舞踊〉もあった。
 そして〈運動会〉。全員スカートで参加の体操とダンス の運動会である。
 
 
 これが終わると毎年12月8日には〈百合の行列〉。小学生から大学生、さらに卒業生から職員の一人一人にいたるまで各自一本ずつの百合の花を手に持ち
聖堂から体育館、講堂と聖歌を唱えながら行列して、最後にマリア像に百合の花を捧げてお祈りをするのである。このときばかりはどんなヤンチャな生徒も
彼女たち自身がマリアであるかのような清純さと気高さにその頬を輝かせ、このうえなく美しい。




 12月には最大の行事〈クリスマス・ウィッシング〉がある。キャロル斉唱と英詩の暗誦の後、院長が一人一人の手にクリスマスカードを手渡す。
 
百合の行列
 
 
クリスマス・ウィッシング

 
   そして3学期は2月の〈校長様のフィースト〉。このときは歌も生徒の挨拶も日本語でよく、生徒たちはくつろぐ。
 これらたくさんのフィーストの主旨は、もちろん“感謝”の心をうえつけることであり、同時にこうした行事を通して礼儀作法をきびしくしつげようとの意図をも含 むものであった。
 廊下では絶対沈黙。授業の前後は必ず廊下で整列。毎週月曜日の厳格なおふだ〈エグゼンプション〉。
 当時、民主教育が芽ぶいたばかりの日本では"自由"と "男女平等"を唱えていさえすれば"進歩的"とみなされる風潮があったが、欧米人の手によって開かれた当学院では、逆に最も日本的な女子教育が自覚されていたわけで ある。

 
 


朝の体操

廊下で整列    
 おふだ  
 
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