〔II〕試練のとき | |||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
→同時代の他の写真はこちら | |||||||||||
【外人マザーの抑留】 この昭和16年12月20日にも、例年のように愛徳童貞会のシスターを招いてクリスマス・ウィッシングを行なっ た。 すでに太平洋戦争に突入し、人々の心は暗かった。それでも、学院でのクリスマス・プレゼントは子どもたちの夢であった。敬虔な祈りとともに行事は進行していた。 そのおり、一人、また一人と外国人のシスターが外に呼び出されていった。約40人を動員しての特高警察の家宅捜策である。 子どもたちのせっかくの楽しみをこわしてはならない――― 祈りの場にまで踏み込もうとする警官を必死でおしとどめ、シスターは動揺する心をかくして尋問と持物の検査を受けたのである。 家は、部屋は、と問われても、シスターには一室をカーテンで仕切ったべットがあるだけ。手荷物は、衣類は、と聞かれても、これも共同の衣類部屋の棚の上のトランクだけである。肉と馬鈴薯だけの台所までのぞきこ んでから、彼らは首をかしげながら引き揚げていった。 しかし翌17年9月には、連合国側の国籍をもつ修道女に対して全員引揚げ勧告がなされ、これに応じない者 は収容所に連行されることに なった。 小林では、当時マザー・ハミルトンとシスター・チマー ヌスが重病の床にあり、幸い、シェルドン院長はこの2人の看護婦として残ることを 許された。 上記3名を除く18名のシスターは、同月23日、神戸の イースタン・ロッジに収容され、さらにその後長崎へ送られた。このうちマザー・ギブスは、開戦前にアメリカ 国籍を抜き帰化の申請を出していたのがようやく認められて19年春、マザー伊藤マリ子となって抑留を解除され、小林にもどった。 しかしこの間、日本軍は南方その他各地でジリジリと敗退しつつあった。緒戦の勢いはどこへやら、19年にはいると早くも敗色濃厚で、これにともない物資は極度に窮乏、敵機は国中の大都市の空を夜となく昼となく襲っていた。 こうした苛烈な状況のなかで、小林に留まったシェルドン院長はじめ非交戦国出身の2名のシスターと日本人シスター5~6名は, 背中に絶えず官憲の眼を感じながら食料や熱料の心配をし、男手のなくなった修院でたきぎ集めや水運びの雑用に追われた。 長いヴェールを背に流し、黒の裳裾をひるがえして歩く優雅なシスターの姿は、もはやなかった。ベールの上には防空頭巾、黒衣の上からはカスリのモンぺをはいて、修院と学院、そしてそこで学ぶいたいけな“聖心の子どもたち”を守ろうとする雄々しい“母”たちがいるだけだった。 かたときも神への祈りを忘れないことのほかには、当時の日本のあらゆるところにいた一般の母親と異なるところはなかったのである。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
【戦時下の学校と生徒たち】 戦局の悪化にともない、昭和18年から学徒勤労動員体制がしかれた。やがて当学院にも19年4月1日、学校工場(神武秋津社第一製作所)が設置された。 現在の図書室、寄宿舎食堂、講堂、校長室、事務室が陸軍の飛行機部品を製作する川西工場、一方、2階、3階の旧寝室が海軍の製図工場にあてられ、女学校の生徒は終日写図・成形・組立の作業に動員された。 しかし、これまで授業のなかに組み込まれていた教練や寒中の校庭で行なわれる素足での薙刀の寒稽古にくらべれば、肉体的にはまだしも楽であった。 また、専修科は英語専修であったため解散を余儀なくされ、学生の多くは女子挺身隊として外部の工事に動員されていった。 さらに、小林聖心国民学校となった小学校の児童たちは、学習のかたわらその小さな身体で食料の増産に励んでいた。いまの運動場は芋畑、小学校校舎の前は南瓜畑となり、そこで土.を耕し種を蒔き、校舎外に特設した手洗所から肥料を運んでこれを育てたのである。学童疎開はしなかったが、家族と一緒に疎開した者もあって、クラスの人数は戦前の3分の2程度に減っていた。 ウウウウ・・・ひとたび警戒警報が鳴りわたると、全校生徒はいっせいに勉強や作業を中断、綿入れの防空頭巾をかぶり、姓名・住所と血液型を記入しためいめいのカバンを肩から斜めにさげて駆け足で中庭に集合する。整列、点呼の後、学年ごとに先生が引率して本館の地下室、および松林(現ゴルフ場)の中に自力で掘った防空壕に退避する。 そして警戒警報解除のサイレンとともにあわただしく帰宅させる。班別に隊を組んで帰宅するのであるが、電車が動かないときは教師が引率して、空襲の後の独特の黒い雨の中を線路づたいに歩いて夙川、芦屋あたりの家庭まで送り届けるのであった。 しかし、こうした難渋の時期でさえむしろ、だからこそというべきかもしれないが、初代院長の時代に始まった小林の慈善活動は続けられた。秋のバザーも、3学期の音楽会(Poor Concert)も、戦時中のこととて内容は貧弱になる一方であったが、決して中止されることはなかった。そして毎年のクリスマスに、これらの収益と合わせて、夏休み中に女学生が1人3枚ずつ縫った袷の着物、先生方の縫ったふとん、各家庭より供出の正月用餅などを、大阪セツルメントその他の恵まれない子どもたちの施股に贈ったのである。 一方、寄宿舎を川西工場に接収されてからは、残った10~11名ばかりの寄宿生は修院に預けられていた。そこだけは別世界であった。当時の寄宿生の一人は次のように語っている。「朝6時の鈴の音とともに祈りで始まり、夜8時半ふたたび祈りで終わる規律正しい日々は、空襲さえなければ、戦争であることを忘れていられるような静けさに満たされていた」シェルドン院長をはじめとする修道女や先生の深い愛と祈りに包まれていればこそであったろう。 なお、この間昭和17年3月に星野学監は退任、代わって同年4月より川瀬渡子が校長に就任している。 (50年史により作成しておりますので、現在という文章は1973年と言う意味でご理解下さい。) |
|||||||||||
|
|||||||||||
お写真はクリックすると大きくなります |
|||||||||||
←前ページ / 次ページ→ ページTOP 学院のあゆみTOP |
|||||||||||