〔Ⅰ〕創立のころ  
 

【聖心会と聖心女子学院】

 聖心会は、1800年(寛政12年)、聖マグダレナ・ソフィア・バラによってフランスに創立されたカトリックの女子修道会であり、「キリスト教的な人間観に基づき、人類社会の進歩と平和のため、心身をつくして貢献する社会人を育てる」事を、事業としている。
 聖心会がはじめて日本に進出してきたのは、創立後1世紀を経た明治41年(1908)のことであった。来日直後の落着き先である東京広尾の洋館で非公式に語学校(現・インターナショナル・スクール)を開校するとともにただちに財団法人私立聖心女子学院を設立した。これが現在の東京聖心、通称”三光町聖心”である。
 つづいて明治44年12月には、神戸市内山手通りに第二の聖心女子学院を開設したが、大阪教区の許可を得ることができなかったため、大正2年やむなく閉鎖した。
 次いで、大正4年、東京芝白金三光町に現在の聖心女子大学の前身、聖心女子専門学校を開校。
 この間には、語学校卒業生のなかから日本人として初めての聖心会修道女(マザー岩下)も誕生して、マザーと生徒たちをそれまで厳然と仕切っていた"聖なる"垣根はとりはずされた。子供たちのマザーを仰ぐまなざしが畏怖から敬愛に変わりはじめたときから、聖心会は、その根を日本の大地へしっかりとおろしはじめたのであった。
 
 
初代東洋管区長
マザー・シェルドン

2代東洋管区長
マザー・キオ
 
 

【住吉聖心の解説】

大正11年(1922)、今度はカスタニエ大阪司教の懇望もあり、聖心会はふたたび関西での学院設立を企図して、土地の物色を卒業生の父兄らに依頼するとともに諸準備を整えはじめた。
 そして翌12年4月3日、マザー・マイヤーとマザー・マーヌーリーが来阪し、玉造のヌーヴェル愛徳修道会に数日間滞在した後、同月9日、稲畑喜久子夫人の提供の兵庫県岡本の別荘に仮修院を開設、同時に数人の生徒を集めてプライベート・レッスンを開始した。なお9日、マザー・ウエルマン、マザー・ヘンダーソン、16日にはマザー・イスペック、シスター・ステンダーが岡本に来た。
 さらに、それからほどなく5月25日には兵庫県武庫郡住吉村鴨子ヶ原184(現在の神戸市東灘区、甲南病院のすぐ南)にドイツ人の別荘を借り受けてここへ移り、住吉聖心女子学院を設立した。
 プライベート・レッスンの生徒数もしだいにふえ、尋常小学校設立の認可もおりたその年の9月1日、未曽有の大地震が東京をはじめ関東地方を襲った。1府8県で死者9万人、負傷者10万人、破壊焼失戸数68万戸をだしたこの関東大震災で、三光町聖心の建物はほとんど壊滅。幸い休暇中のため1人の犠牲者も出さずにすんだが、九州・朝鮮・関西方面からの寄宿生たちは勉学の場と同時に宿をも失い、この住吉へ預けられることになった。
 ただでさえ手狭な旧別荘の学院は、不意の来客でたちまち満員となり、昼間机を並べた教室が、夜は畳を敷いて寝室に変わるという状態であった。この間、語学校の生徒数も漸次増加し、もはや洋館への収容は、限度に達したので、敷地内にバラックの仮校舎を建設した。
 これが、小林聖心女子学院の前身、通称“住吉の聖心”と呼ばれているものである。
 大正13年4月、小規模な尋常小学校と高等女学校を開校し、同時に、高等女学校卒業生のための英語専修科を発足させた。
 学院創立者はオーストラリア人メレ・シェルドン女史(当時・三光町聖心女子学院院長)、保証人は、稲畑勝太郎・平生釟三郎の両氏となっている。また、初代校長(当時は学監と呼んでいた)には明治の文学者星野天知氏の夫人で島崎藤村の『春』にも登場している星野萬先生を迎えた。

 
 
初代・3代院長
マザー・マイヤー
神戸聖心のマザー 学監 星野 萬
 
 

【丘の上の学舎】

 阪急の御影駅を降り、大きな石垣を右に見ながら坂道を登っていく。やがて道は松林の中にはいり、左寄りの小道をなおもたどっていくと、ドイツ風の洋館2棟とバラックの仮校舎が見えてくる。見晴らしのよい丘の上である。建物を取り囲む庭には、ある時は山茶花、またある時は椿と、色とりどりの季節の花が咲き乱れ、ふり返ると、光り輝く神戸の海が眩しく眼下にひろがっている。ときおり、ロザリオを手に松林を散策したり、3-4人で椅子を円型に寄せ合って編物をしたりしているマザーの姿が見られ、公立の学校とはおよそかけ離れた雰囲気をかもしだしていた。
おも家には寄宿生の寝室(大正15年当時で12~13名の寄宿生)、院長室兼生徒の衣類部屋、聖堂、教室、応接間、食堂、その他にバラックの仮校舎があった。また、修院には山寄の元阿媽小屋とおぼしき小さな離れがあてられていた。
 開校3年目の大正15年で、1年生から3年生までが、30名程度。4年生以上は転入であるからごく少数、しかもその大半は外国帰りで、日本人の先生よりも英会話は、はるかに達者であった。当時、4年生に国語を教えていた岡本ちよ先生は、『マザーとの会話の通訳は生徒たちが引き受けてくれた」と書いている。
 このころ学院の先生は、それぞれの専門課目を教えるだけのいわば講師のような存在で、生徒たちの一般的な訓育・指導にはすべて修院のマザーがあたった。彼女たちはその他寄宿生の食事や洗濯の世話一切を引き受けていた。

 
 
神戸住吉校舎 校舎前の先生と生徒 高等女学校生徒 英語専修科生
 
 

【小林へ移転】

 しかしながら、この美しい環境とかわいらしい校舎の住吉時代は長くはなかった。院長マザー・マイヤーはかねてより本格的な学院建設をめざして西宮方面での敷地さがしに奔走していたが、すでに大正14年5月、現在の小林に広大な敷地を購入、15年4月から校舎ならびに修院の建設を開始していたのである。
 小林が学院建設用地として浮かび上がってきたのは、前出の稲畑氏の所有する畑の一部がこの近くにあったからであるが、最初の下見のとき、同行の星野学監から「ここは温泉場の宝塚に近いですが、よろしいですか」と念をおされたマザー・マイヤーは「どこにあっても、心の持ち方の問題ですからだいじょうぶです」と答え、その場で決定の断を下した、というエピソードが残っている。
 建設工事はその年のクりスマスに間に合わせるべく急ピッチで進められ、学校が冬休みにはいって間もない12月22日にほぼ完成した。その前夜は、荷物がいっぱいで足の踏み場もない部屋で、マザー・マッケナーはテーブルの上、同年春欧州から帰国して住吉に赴任したばかりのマザー岩下はグランドピアノの下に、それぞれやすんだという。
 明けていよいよ引越し当日、大正天皇ご危篤の報が流れるなかを、各修道女は持てるだけの荷物を抱えてあわただしく人力車に乗り込み、小林へと向かった。現在のピアノセルから講堂の方へかけての一角が竣エしていたが、それでもまだ多数の職人たちが最後の床の仕上げに追われていた。その後も昼夜をわかたぬ作業がつづけられたが、聖堂の床はついにクりスマスには間に合わず、御ミサは香部屋で行なわれた。しかし、ともかくも年内に工事は完了し、シスターは新学期に生徒を迎える準備に忙殺された。なお、移転と同時に、学院名は財団法人小林聖心女子学院」と改祢された。―――大正15年12月、良元村小林字ハゼリ(宝塚市塔の町3番113号)のこの丘は、はつ茸や山ツツジ、竹のおい茂る小高い森に囲まれて、きたるべき聖心の生徒たちを待っていた。
 阪急今津線小林の駅から丘の上の学院への道はまたしても坂道。それも、石ころだらけのデコボコ山道だった。大正天皇崩御により年号が改まって間もない昭和2年初頭から、この坂道は、笑いさざめき肩を寄せ合いながら、あるときは桜の花びらを手に受け、またあるときは落葉を拾いながら登り降りする生徒たちを、以後何十年にわたって見守りつづけることになっのである。

 
 
小林校舎 ピアノセル 聖堂 図書館
 
講堂 講堂(内部) 寄宿の学習室  
 
 



【恵まれた教育】

 新しい立派な校舎に移りはしたが、小学校、女学校、英語専修科合わせて約80名という小人数で、学校というよりは私塾と呼ぶ方がふさわしいほどであった。寄宿生たちはその総数より多いシスターの手で、かゆいところに手の届くような世話を受けるとともに、それら修道女と日常を共にすることによって、神への感謝や奉仕の心を知らず知らずのうちに身につけるのであった。また専修科においても、当時から国文学や経済学、料理、手芸などが課せられ、それぞれ専門の講師が招かれた。“幅広い女子教育を”"というマイヤー院長の心づかいからである。
 こうして昭和初めの10年ばかりは、小林の丘には静かで平和な時が流れた。


ドミトリー
 
 


第1回卒業生


第2回卒業生
 

全校生徒(昭和2年)

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